やればやるほど ディスクシステム インタビュー(2004年9月6日号、9月21号より)
2月21日はファミコンの周辺機器「ディスクシステム」の発売日。ディスクシステムのゲームといった過去ハードのゲームソフトは今でこそ、クラシックミニやバーチャルコンソール、Nintendo Switchオンラインなどで遊べますが、以前はなかなか遊べませんでした。そんななか、2004年にゲームボーイアドバンスで発売された「ファミコン ミニ」シリーズではファミコンで発売された過去タイトルがゲームボーイアドバンスソフトととして復刻・発売され、大いに話題になりました。そして第3弾の「ディスクシステムセレクション」では、ディスクシステムで発売された名作がゲームボーイアドバンスソフトとして蘇りました。
ディスクシステムのゲーム開発に携わった4名の開発者を直撃
ニンドリ本誌では、1980年代にディスクシステムのゲーム開発に携わった4名の開発者を直撃し、当時の開発秘話を伺っています。
今回の記事では2号にわたって行われたインタビュー記事を再掲載。一部読みやすくまとめ直してはいますが、ほぼ当時のままでお届けします。『メトロイド』『光神話 パルテナの鏡』、そして『ファミコン探偵倶楽部』の開発秘話となっていますので、あくまでの当時の空気感を楽しむものととして、じっくりとお読みいただけたらと思います。
※写真や所属、ゲームタイトルなどはすべて2004年当時のものとなりますのであらかじめご了承ください。
プロフィール(左から)
坂本賀勇
1959年7月23日生まれ。奈良県出身。血液型O型。大阪芸術大学デザイン学科卒。1982年、任天堂入社。「ゲーム&ウオッチ」のデザインの仕事を皮切りに、『メトロイド』シリーズや『ファミコン探偵倶楽部』『カエルの為に鐘は鳴る』『カードヒーロー』などを開発。
清武博二
1960年12月21日生まれ。鹿児島県出身。血液型A型。京都精華大学デザイン学科卒。1983年、任天堂入社。初代『メトロイド』の開発に携わり、『スーパーマリオランド2 6つの金貨』によって、ワリオの生みの親に。
大澤 徹
1962年12月27日生まれ。京都市出身。血液型A型。京都精華大学デザイン学科卒。1985年、任天堂入社。『光神話 パルテナの鏡』がデビュー作。代表作は『ファミコン探偵倶楽部』『カエルの為に鐘は鳴る』『ゼルダの伝説 時のオカリナ』など多数。
山本健誌
1964年4月25日生まれ。三重県出身。血液型B型。大阪芸術大学音楽学科卒。1987年、任天堂入社。『ファミコンウォーズ』『ファミ探2』『スーパーメトロイド』『メトロイドプライム』などのサウンドを手がける。
ディスクシステムが出た頃は いろんなことを立て続けにやりました。(坂本)
ファミコンのコントローラでドット絵を描いていた
── そもそもディスクシステムとは、みなさんにとってどういう存在ですか?
坂本 大澤や清武の世代にとっては、ディスクシステムからゲーム開発をはじめたところがあるんです。
大澤 いやいや、清武さんは『ダックハント』(1984年)からじゃないですか?
坂本 そうか、清武は僕の1年後輩やからね(笑)。開発一部で初めて出したファミコンソフトは『バルーンファイト』(1985年)だったんです。そのとき僕が担当しまして、『レッキングクルー』(同年)…どちらも業務用でも出てるんですけど、ファミコンのゲームって「イチニッパのロクヨン」と言われていたんです。プログラムが128キロビットで、絵で64キロビット使えたのが、『レッキングクルー』から「ニゴロ・ロクヨン」になって、プログラムに256キロビット使えるようになって、それで大容量になったと言われたんです。ところがさらにディスクシステムによって、ほぼ1メガビット使えるようになって、ホンマに大容量になったと言われたわけですね。
── カセットの3倍の容量になって、当時の作り手としては、喜ばしかったわけでしょう?
坂本 容量も増えて、やれることが増えていくという流れのなかで、面クリのゲームからの脱却…、別に脱却する必要はないんですけど、規模の大きなゲームができそうなイメージでディスクシステムを見ていたと思いますね。それに、そのころから開発環境もすごくよくなりましたし、ディスクシステムが出てきた頃は、いろんなことを立て続けにやったなあと思いますね。自分の人生のなかでも、いちばん忙しかったイメージがあります。でも、「ディスクシステムで大容量だ」と言ってるときに、他社からいきなり1メガビットのカセットが出たりして「何すんねん」って言ってたりしたんです(笑)。
大澤 1メガビットで最初に出たカセットは『魔界村』(1986年)だったんですよ。それで「こんなん出てきたら、ディスクシステムはいらんやん」とか言ってたんです(笑)。
── ディスクシステムの発売直後に、サードパーティからメガロムカセットが発売されたわけですね(笑)。
大澤 ディスクシステムはAB面あわせて1メガビットの容量を誇っていて、さらに磁気ディスクですから書き換えもできるということで、セーブも自由にできるようになったわけです。それ以前のカセットはわざわざパスワードを使ってセーブするようになっていたわけですからね。ですから、当時としてはすごく新しい媒体が登場したようなイメージがあって、パソコンでしかなかったようなゲームもこれでできるようになるなあと言ってたんです。
── やっぱり、開発者にとっては開放されたような印象があったんですか?
大澤 今回取材を受けている人間で、サウンドの山本以外はみんなデザイナー出身なんですけど、絵を描く人間にとっては、ディスクシステムの登場ですごく幅が広がった感がありましたし、とてもたくさんの絵を描けるようになったわけです。
── 容量が増えたので、キャラクターのいろんなモーションが表示できるようになったわけですね。
坂本 それで、たくさんの絵を描かないといけないということで、開発環境もそれに合わせてよくなったわけですね。ま、僕の場合はなぜか環境がよくなってから絵を描かなくなったんですけどね(笑)。
── 環境がよくなったというのは…?
坂本 プログラムの環境に関しては、僕らはよくわからないところはあるんですが、絵を描く環境にについてお話すると、ディスクシステムになるとたくさんの絵を描かなきゃいけないですよね。昔は本当に手作りで、その装置にはLED(発光ダイオード)が16×16並んでいて、それにぴったし合わせた方眼紙を載せて、「ここは緑」「ここは茶色」って感じで1マス1マスを埋めるように描いてたんですよ(と言ってコントローラを操作するしぐさをする)。
── ……?
大澤 そんな作業をファミコンのコントローラでやってたんです。
── そうだったんですか!?
大澤 デザインツールのパッド(入力装置)はファミコンのコントローラで代用してたんです(笑)。
── へえ〜。当時はマウスは一般的ではなかった…。
坂本 この頃はデジタイザー(ペン型の入力装置)とタブレットで、マウスでできるようになったのは、スーパーファミコンの頃からなんですよ。
大澤 その前は、まず方眼紙に絵を描いて、それに色をつけて…。
坂本 3色やったね(笑)。
大澤 そうそう(笑)。それで、それをCADの上に載せて。
坂本 CADというか、入力装置やね。
大澤 そのような装置からファミコンのコントローラが出ていて…、1コンですけどね。絵を描くだけだから2コンのマイクはいらんのですよ(笑)。それで、カーソルを方眼紙に合わせて、色を決定という感じで、マスを1つずつつぶしていたわけです。
── 『マリオペイント』(1992年/SFC)の原始的な装置と思えばいいんですか?
坂本・大澤 もっと原始的!(笑)
大澤 でも、当時のようにやってたら、いまのようなゲームはつくられへんですよね。もう、ホントに気が遠くなるような作業でしたね(笑)。