上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(後編)(2013年10月号より)
今回の記事では生誕30周年のときにニンテンドードリームで行われたインタビューを再掲載します。
ファミコンの生みの親である上村雅之さんが語る、当時の開発秘話。
聞き手はこちらも一世風靡したゲーム雑誌「ファミマガ」こと、ファミリーコンピュータマガジン初代編集長である山森尚さん。じっくりお楽しみください。
前編はこちら
上村雅之さん プロフィール
1943年、東京都生まれ。千葉工業大学を卒業後、早川電機(現シャープ)に入社。1971年に任天堂に移籍し、ファミコンおよびスーパーファミコンの開発責任者を務める。2004年に任天堂の開発アドバイザーになると同時に立命館大学の特任教授に就任。現在は同大学の客員教授およびゲーム研究センター長を務める。
ワープロに助けられる
山森 そのようにファミコンの仕様の大枠が決まったのはいつ頃だったんですか?
上村 1982年の夏頃です。
山森 発売の1年くらい前ですね。で、一説によると価格は2万円を超えるような仕様になっていたということですが。
上村 2万円まではいかないですけど、1万5000円を遙かに超えていました。そこで、ゲーム機本体ではなく、ゲームソフトで採算がとれるようにしようという話になったのですが、ゲームのROM(注16)をつくっている会社がないという問題に直面したんです。そもそも量産をしてくれる会社がないので…。
山森 するとコストが高くなってしまいますね。
上村 そこで、大手メーカーに僕の友達がいたので、頼みに行くと、「ROM? そんなもの、つくるはずがないやないか」と即答されまして。あとになってからすごく悔しがってましたけどね(笑)。
山森 ファミコンがこんなに大ヒットするとは思ってなかったんですね(笑)。で、どこがつくってくれることになったんですか?
上村 あのとき救ってくれたのは東芝さんなんです。当時はワープロ(注17)の開発に積極的で…。
山森 はい。東芝のワープロは有名でしたからね。でも、ワープロとROMはどういう関係があるんですか?
上村 英語と違って日本語は、文字数が膨大にありますでしょう。だからその文字の情報も多いので、それらを独自に開発したROMに載せていたんです。
山森 ああ、なるほど。生産されていたものを使う形ですね。
上村 だから、東芝さんには本当に助けられました。
山森 ファミコンの値段はいつ頃決まったんですか?
上村 最後の最後です。
山森 それは、コストダウンを最後までやっていたということですか?
上村 いや、コストダウンしてるつもりが、逆にコストアップになったりもしました。たとえばコントローラを2個付けるという話が典型的ですけども。
山森 もともとは2個のコントローラではなかったんですね?
上村 そうです。僕が最初に考えたモデルは、本体の手前にコントローラが付いてるものだったんです。しかも、ジョイスティックでした。
山森 つまり今の本体で言うと、リセットボタンなどの位置にジョイスティックが一体化して付いていて、そこで操作するようになっていたんですね。
上村 そうすればいちばん安くできるでしょう。
山森 たしかにそうですね。それにダメ出しをされたのはどなただったんですか?
上村 前社長です。でも、横井さんも異論を唱えたようで、デザインに関しては僕のチームから取り上げられて、あっちへ行っちゃったんです。
山森 あっちというのは?
上村 横井さんのゲーム&ウオッチチームです。
山森 ええっ、そうだったんですか。
上村 ええ。それで僕のところに戻ってきたときには、2つのコントローラが付いていたんです。でも、まだその時点ではジョイスティックだったんですけどね。そこで僕の方で十字ボタンを採用することに決めました。
山森 それはコストの問題で?
上村 そうですね、コストと使いやすさ、そして踏んだときにケガしないように、壊れにくいように、ということです。
山森 子どもが踏んだら困りますしね。
上村 そもそもゲーム&ウオッチがそういう安全思想でつくられた商品でしたから。
ファミコンは超高級品
山森 ファミコンの色の赤と白はどのようにして決まったんですか?
上村 この赤は、前社長が「この色や」と決めたんです。「赤ですか?」と聞いたら、「いや、普通の赤やない」と言われて。「この色や」と渡されたのが自分のマフラーやったんです。
山森 普通の赤ではなく、えんじ色に近いんですね。
上村 そのマフラーの色が指定色になって、あとはデザイナーが決めました。
山森 赤と白にしたのはコストを下げるため、という話もありますが。
上村 そうじゃなくって、最初に赤を指定されると、ほかの部分の色を青や黄色にするわけにはいかないですよね。
山森 だから、デザイン上、白を選んだわけで、コストダウンのためではないんですね。
上村 コストはまったく関係ないです。じつはボディには、任天堂製品として初めてABS樹脂(注18)を採用しました。プリント基板も初のガラスエポキシ両面基板(注19)で、超高いんです。なのでファミコンという商品は、じつは超高級品なんです。
山森 なるほど。ちなみに開発コードにはいろいろ説があって、ちょうど10年前に今西さん(注20)にお聞きしたときは「ヤングコンピュータ」という話でしたが。
上村 名前についてはいっぱい変わりました。
山森 最初はなんと呼んでたんですか?
上村 最初は「テレビゲーム」です。
山森 あはは。そのものですね(笑)。
上村 あとは「ゲームコンピュータ」の略の「GAMECOM」を「ガメコム」と発音したりと、みんなが勝手に呼んでいて、そのときのノートを見ると、みんな違うことを書いてるんです。
山森 (笑)
上村 で、最後に商品の管理上、品番を決めないといけないことになって、「ホームビデオコンピュータ」を略して「HVC」にしました。そのようにたくさんの紆余曲折を経て、「ファミリーコンピュータ」に決まったのは、本当に最後の最後でしたね。
山森 ファミリーコンピュータに決まったのは、奥さんのご提案だった、という話もありますが。
上村 それは違います。家内とはいまでもけっこう理屈っぽい話をするんですが、当時も「テレビゲームをつくっていて、名前に困ってるんやけど、ホームコンピュータでもないし、パーソナルコンピュータでもないし、僕はファミリーコンピュータかなあと思うんや」と言うたら、彼女が「ファミコンやね」と言ったんです。
山森 なるほど。
上村 それで、「ファミコン」で提案してみたら、社長から「なんや、これ?」と聞かれたので、「これはファミリーコンピュータの略称で、パソコンとかもあるし、ファミコンでどうでしょう?」と言ったら、即座に「却下!」と(笑)。
山森 あははは(笑)。
上村 で、全部が却下されたのかと思ったら、「ファミリーコンピュータで行こう」という話が伝わってきて、「なんや、あのとき気に入ってたんや」と思いました(笑)。
山森 そもそも「ファミコン」は、シャープさんが商標をとってたんですよね。
上村 そうなんです。しかも電子レンジで「ファミコン」。
山森 電子レンジですか。
上村 あれにはビックリしました。けど、のちに任天堂が買い受けることになるんですけどね。
ファミコンは死んでしまう
山森 それでいよいよ1983年7月15日にファミコンの発売日を迎えますが、とても静かな出足だったようですね。
上村 ぜんぜんでした。先日、ファミコン30周年の記事を書くためにある新聞社の記者さんが来られたんですけど、その人が過去の記事で、ファミコンの発売日を調べてみたら、記事として何も載っていなかったと嘆いていました(笑)。
山森 ゲーム機としては後発でしたしね。上村さんご自身は、発売日をどんな気持で迎えられたんですか?
上村 不良問題のことで頭がいっぱいで、残念ながらその日のことは覚えてません(笑)。工場からは「動かへん」とか、いろんな話が来ていて、その対応に追われていましたしね。
山森 不良問題と言えば、コントローラのボタンが四角だったために、押したあと、元に戻らないということが起こりましたよね。
上村 あれはプレイヤーの方が「にじり押し(注21)」という、独特な押し方をしたために起こったんですが、あれには本当に困りました。
山森 もともとゲーム&ウオッチのボタンはほとんどが丸なのに、ファミコンではどうして四角いボタンを採用したんですか?
上村 あれはたぶんデザイナーが、本体のパワースイッチとリセットボタンの四角い形に合わせたんじゃないでしょうか。
山森 ああ、なるほど。
上村 あとコントローラについては、故障したときに簡単に交換できないことも問題になりました。
山森 コントローラのケーブルが本体に直接つながっていますよね…。
上村 だから「どうして、簡単に交換できるコネクターで接続しなかったんだ」とずっと言われ続けたんです。
山森 それはコストを安くしようという?
上村 そうです。けど修理するときには厄介な設計でしたね。それでしょうがないので、お店で修理できるように指導していましたね。
山森 修理マニュアルをつくったと。
上村 そもそもおもちゃ屋さんは、売ってる商品に不良が出たら、全部をメーカーに返品するんです。
山森 家電とは違いますからね。
上村 ところが、ファミコンの場合は、もともと品薄になっていましたし、1日も早く修理して、カセットを売りたいわけでしょう。だから、おもちゃ屋さんも積極的に修理をしてくれたんですけど、そういうことやっていただいたのは、たぶんおもちゃ屋の歴史で初めてのことじゃないかと思います。
山森 あと、12月に『ベースボール』(注22)が発売されて、そのときにグラウンドの白い線が消えるという問題が起きましたよね。
上村 PPUの熱処理の問題がありまして、発熱でなかのデータが消えてしまったんです。このトラブルに関しては、おもちゃ屋さんで修理をしていただくわけにはいきませんので、ファミコンの出荷を一時的に停止し、店頭からファミコンを回収するというところまで発展しました。ですからそのときは、「ファミコンは死んでしまう」とまで思ったくらいです。
「300万台いったらすごいね」
山森 そのように、最初の年はいくつかのトラブルが発生しましたが、「これは行ける!」という手ごたえを感じたのはいつ頃だったのですか?
上村 翌年(1984年)の1月末に、営業から「売れてる」という話を聞いたときです。店頭から回収しましたので、ファミコンを売っていないお店にやってきたお客さんは、他社のゲーム機を買うのが普通なんです。ところが「ファミコンが入荷したら売ってください」というお客さんが増えてきたというんです。
山森 指名買いをされるようになったんですね。
上村 そうです。で、その頃からじわじわ売れ出していって、それまでは任天堂1社だけでソフトを出していたのが、ハドソンさんから『ロードランナー』(注23)が出てくるわけです。
山森 84年の7月ですね。
上村 その時点でようやく100万台を超えたか超えないかくらいで。「ファミコンとその時代」にも書きましたけど、おもちゃの世界では「300万台売れたら大ヒット、100万台でまあまあ」という感じなんです。
山森 その時点では、300万台までは行くだろうという感じだったんですか?
上村 いや、「300万台行ったらすごいね」という(笑)。でも、そもそも開発者はそんな数字のことは考えないです。過去の経験からすると、とりあえず100万までは行ったという安心感はありましたけど。
山森 それが11月の『ゼビウス』(注24)の発売で、ファミコンの販売がさらに加速しますよね。
上村 そうですね。2回目のクリスマスシーズンを迎える頃には、ファミコンの製造が間に合わなくて、すっかり品薄になっていました。
山森 そして、翌1985年の9月には『スーパーマリオ』がいよいよ登場します。
上村 そのときはまさに火に油を注いだ状態でしたね。『スーパーマリオ』が出たときは、すでに400万台以上が売れていましたから。それに『スーパーマリオ』の功績は、女の子を巻き込んだ、初めてのゲームソフトと言ってもいいのではないかと思います。
山森 たしかにそれまでは、お兄ちゃんがファミコンで遊ぶのを見ていただけだったのが、『スーパーマリオ』のときは遊ばせてもらったという経験を持つ女の子が多かったですよね。
上村 あと、ゲーム画面を見て「かわいい」という言葉が飛び出してきたのも、この『スーパーマリオ』だと言われているんです。
『スーパーマリオ』の大ヒット
山森 まるでファミコンの勢いをつけた第二弾ロケットのような感じで発売された『スーパーマリオ』でしたが、上村さんはこのゲームが開発されていることをご存じなかったそうですね。
上村 そうなんです。宮本くんは新しくできた部署でゲームをつくっていましたし、こっちはそれどころじゃなかったですから。
山森 ディスクシステム(注25)の開発と、アメリカ進出という大きな仕事をかかえていたんですね。
上村 そうです。だから、『スーパーマリオ』のことを初めて知ったのはテレビコマーシャルだったんです。
山森 コマーシャルで知ったんですか?(笑)
上村 そうなんです。そのとき「ああ、出たんや」と思いました。
山森 僕は『スーパーマリオ』発売の3か月前に「ファミリーコンピュータマガジン」(注26)を創刊したんですけど、発売される前のお盆明けくらいのタイミングで、初めて触ったんです。
上村 どんな印象でしたか?
山森 ひと目見て「これはすごいゲームだ!」と思いました。その場で9月発売号の増ページと攻略本(注27)の発売を決めたくらいですから。
上村 でも、発売直後はそんなに大きな反響にはならなかったでしょう。それがファミマガのような雑誌とか、販売店とか、実際に遊んでくださったユーザーの口コミのおかげで拡がっていったんでしょうね。実際、僕が『スーパーマリオ』がすごいと思ったのは、息子を通じてだったんです。
山森 息子さん、ですか?
上村 当時、息子は小学6年生くらいで、長女は中学生だったんです。彼らは『ドンキーコング』から全部のファミコンソフトをモニターとして遊んでくれてたんです。ところが『スーパーマリオ』だけは、僕が持って帰らなかったんです。
山森 それほど忙しかったと。
上村 そうですね。だから、彼らはそんなゲームが出たことも知らなかったんです。そしたら学校で聞いてきたんでしょうね。「すごいゲームが出たみたいだから遊びたい」って。
山森 まさに口コミのちからですね。
上村 それで家に持って帰ったら、ずっと張り付いていまして、「これがいちばんおもしろい」と言ってたのをよく覚えています。
山森 その『スーパーマリオ』が大ヒットしているという情報は、前社長から伝えられたそうですね。
上村 そうなんです。発売されてから1か月くらい経ったときに、冒頭にお話しした「首都圏」の取材で、東京のホテルに泊まっていたんです。で、前社長も同じホテルに泊まっていて、取材が終わったあと、「部屋に来てくれ」と言われて雑談していると、本社から電話がかかってきたんです。そのとき「『スーパーマリオ』がものすごいヒットになりそうだ」という話を聞かされたんですね。
山森 当時はPOSシステムもなかったですから、実際の売り上げがわかるまで、タイムラグがあったんですよね。
上村 そうです。だから、そのときは「そうかっ!」って、すごくうれしかったですね。ところで山森さんがつくった攻略本もたくさん売れましたよね。
山森 はい、おかげさまで。2年連続で、すべての書籍のベストセラーで1位になりました。
上村 その記録はまだ塗り替えられていないんですよね。当時、「週刊ブックレビュー」という番組があって、1年間くらいトップが続いていたのを、僕もよく覚えています。
ファミコン60周年も?
山森 では、ちょっと個人的なことをお聞きします。1971年に上村さんがシャープから任天堂に移られるとき、「転勤がイヤだったから」という理由は本当なんですか?
上村 ハッキリ言ってそうです。あのときシャープで海外転勤の話がありまして、アメリカでICの勉強をしてきなさいと言われたんです。でも自分はICをやりたいと思ったこともありませんし、ちょうどそのときに結婚したばかりで、子どもの教育の問題も出てくるなあと。
山森 だから、行きたくないなあと。
上村 そう思っているところに、任天堂さんからお誘いをいただいたんです。
山森 でも、1971年当時の任天堂は、シャープと比べようもないような小さな会社だったわけでしょう?
上村 そうですね。でも、任天堂と取引をする関係で、いろいろ調査をしていたんです。
山森 財務状況とかを?
上村 そうです。どれくらい借金してるか、といったことまで調べてみると「おっ、この会社、すごいわ」と思いました。変なことをしなければ、絶対につぶれない優良企業だったんですね。
山森 なるほど。あと、もうひとつ。書籍やネットなどで、上村さんの出身地が「奈良県」と書かれていますけど、じつはそうじゃないんですよね?
上村 そうです。結論から言いますと、生まれたのは東京都杉並区です。終戦の2年前の1943年に生まれまして、生後1か月くらいのときに、空襲が激しくなってきたので疎開したんです。そしたらその3日後に、住んでいた地区が爆撃されたという話です。
山森 ああ……。
上村 それで鳥取の米子に疎開しまして、そこに長くいて、そのあと京都に移ってきました。
山森 では、奈良に住まれたことはないんですね。
上村 親父とお袋が奈良出身なんです。
山森 それを誰かが上村さんの出身地と勘違いして書いたことが定説になったんでしょうね。
上村 そうなんでしょうね。奈良は親の里なんです。
山森 では最後に、ファミコンを愛する人たちにメッセージをお願いします。
上村 本当に、30周年を祝っていただいて、ありがとうございます。この言葉が僕の言いたいことのすべてです。30年もたって、あんな昔の機械を、みなさんに思い出していただいているということは、本当に開発者冥利に尽きます。
山森 ファミコンって、手に入れることが困難でしたし、初めて自分の家に来たことも含めて、強烈な思い出として残ってるんでしょうね。
上村 そうなんでしょうね。でも……30年後のファミコン60周年のときは、僕は絶対に生きていないと思うんです(笑)。
山森 そんな……(笑)。
上村 だって100歳でしょう。
山森 では、30年後に100歳のお祝いと、60周年のお祝いを同時にやりましょう!
上村 ありえないです(笑)。
山森 いや、がんばっていただいて。今日はどうもありがとうございました。
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